心地良い個人

 

30本の輻は1つのこしきに集まって(車輪を形成して)います。
そこに何もない空間があるから、車輪としての役割を果たすのです。

粘土をこねて器を作ります。
そこ(器の中)に何もない空間があるから、器としての役割を果たすのです。

戸や窓を貫いて部屋を作ります。
そこ(部屋の中)に何もない空間があるから、部屋としての役割を果たすのです。

つまり形ある物が価値があるのは、形ない物がその役割を果たしているからです。

                  老子 無用之用 現代訳

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果たして真っ当な正しさの中に僕たちは存在するのだろうか

美しさのみへの純粋な信仰が、醜さを生み。
善のみへの固執が、不善を生じさせている要因ではないだろうか。


形あるものを追い求め、形ないものの多くを、無いものとして取り扱ってきた。


個人的な話をすると、
僕は筋トレが好きだ。

1年間真剣に自分の身体と向き合い、
劇的な変化を手に入れた。

それでもやはり、身体的な変化を支えているものは、
形ないものである精神的成長があったからこそであり、
僕はそちらに喜びを感じているのです。

 

「自己にとって心地良い個人
 他者にとって心地良い個人」

それは相反することなく、存在することはできるのだろうか。
答えはYESだ。
そして僕はその方法をすでに知っていて、
あなた方もその方法をすでに知っている。

心地良さを固執し、崇拝しても、
心地良さから目を逸らしても、
心地良さは一向に捉えられないことを知っている。
心地の良さなど、形ないものだ。

しかし僕たちはそれを間違いなく捉えることができる生命体である。

自身にとって心地良い存在の自分が形ないものとして存在するとき、
それは他者にとって心地良い個人であり、
他者にとって心地良い個人であろうとしたとき、
それは自身にとって心地良い個人として存在することになるだろう。
どちらが先かなど、議論するテーマとしてはあまりにも軽率なほど
そのふたつは表と裏にある。前と後ろにある。上と下にある。

見るべきは、形あるものと、形ないもの。
見るべきは、外側と内側。。。

 


文章を書いている時の自分はとても心地が良い。
後からの評価や意見は存在するが、

今この瞬間、文字の羅列という営みには、
僕以外の何ものも介入することはなく、
とても清々しい気分を味わう事ができる。

あまり多くを望みはしないが、
仮にあなたがこの文章にたどり着いたのなら(それだけで喜ばしい事だけれど)

僕からの何かしらの心地良さを感じていただければ、
何よりの幸福であり、他者にとって心地良い個人であれるのです。

そして、自己にとっての心地良い個人であれるのです。